kate_sheep’s blog

IQ151ある人が勘付いたことを書く

西野の煙突町のプペルの黒幕とゴーストライターについての考察

大炎上しているのはあんまり気にはなりません。背景が異様に上手くて純粋にいい絵だなぁ技能があるっていいなーと思います。売り方も賢いと思います。無料化して宣伝するのが悪いならGooglefacebookもハテナブログも悪です。

そこはきっと自作炎上だと思うのでどうでもよいのですが、無料公開された煙突町のプペルを読んで、ある違和感を感じました。

通常の絵本というより映像の手法が多く使われていることでした。

しかしたかだか絵本に3D映像を使うには予算が合わないはずです。いくら23万部売れても元は取れません。

既に映像が作られている可能性が高いと思われます。

煙突町のプペルは普通の絵本にはない特徴がいくらかあります。 

 

煙突町のプペルの中で通常の絵本にないもの

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物語の始まりを思い出してみましょう

「昔々おじいさんとおばあさんがいました…

「シンデレラという娘がいました…

などとこんな感じにキャラクターから始まります。

一方煙突町のプペルの場合はどうでしょうか。

 

「4000メートルの崖にかこまれ…

イラストも話題もまず背景の説明から入っています。

 

絵本はあまり背景の引きから世界を導入しません。キャラクターから始まります。

広大な背景が広がってから主人公の姿が映る…という構図は映画でよくみられる手法です。素人ならなおさら、キャラクターから入ります。昔見た絵本の語り口がほとんどそうだったでしょうから、自然に「絵本ってこういうものだよな」と思うので、そういう手法をとる確率が高いと考えられます。

 

素人ならキャラクターから始めてしまうし、

またプロでもキャラクターから始める場合が多いのです。

映像的な手法である、背景から入る技法 がつかわれているのは不自然です。

本当に絵本は背景から入らないものが多いのか?

子供というものは、なかなか背景に興味を持ちにくい生き物です。

興味があるのは、まず人形とか、キャラクターとか、リンゴとか、太陽とか、星とか、記号化したもの、シンボリックなもの、あるいはキラキラしたものとか、そういうもので、絵を描かせるとなかなか空間を把握した絵を描けない。でも元気いっぱいに人間やキャラクターを描きます。

例えばこういうものですよね↓


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自閉症の子供がたまに写真のような風景を描くこともありますが、そう言った才能は例外的で多くの子供はキャラクターやマークや果物や電車などを描きます。風景の認知が難しいからです。


子供は空間を把握するより先に、自分の母親、食事、身の回りの物を触って、(あるいは口に入れて舐めて)覚えます。これは発達心理学的に仕方のないことなのです。

 

絵本はあまり背景の引きから世界を導入しません。子ども受けが悪いからです。

人形より写真の風景を好む子供は稀です。

 

「大人が思う今風のかわいらしいキャラクターより、子供はアンパンマンを好む」という話を知っているでしょうか。アンパンマンは大人からすると評判は最悪で編集から「やめろ」といわれるほどでしたが、子供がアンパンマンを異様に好むのでヒットした作品です。

 

その為「絵本をかこう」として絵本を参考にした場合、なかなか背景から導入する、という考えは素人では思いつきにくい発想なのではないか?と違和感を感じたのです。

 

 

映像の手法に多い「背景からの導入」

多くの絵本はなかなか背景から入りませんが、
一方映画は殆どと言っていいほど最初に背景の導入があります。

絵本よりはるかに撮影が難しくても映画は3DCGを駆使したりロケ地に行って空を飛んで撮影導入部分に背景を入れます。映画にとっては背景導入はとても大事なものなんですね。だから映画人はこのことに概ね気が付いて、自然に背景を入れます。

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以上の絵本にはない違和感から感じたのは、

私が煙突町のプペルで感じた違和感は「なんだか映画のコンテ集を部分的に見ているような気がする」というものでした。

 

この背景から導入する形は新しめのマンガでもよく見られる手法ですが、絵本ぐらいの一環で完結する読み切りでこの手法を使う人は少ないです。

もうひとつ煙突町のプペルがマンガ的ではないな、と思ったのは「亡き父親の癖」の伏線です。

 

 

静止画の絵本で鼻をこする動作で表現する意味

あの鼻をこする動作は映像では意味がありますが、マンガや絵本では表現しづく伝わりにくい面があります。なぜあえて鼻をこする癖だったのかイマイチ理解ができないのです。

テンポが悪くなるし、絵本制作だってお金がかかります。

余計なシーンを入れたらあの物凄く緻密な背景を描くのに何週間分の人件費が払われるわけです。

絵本はともかく、ジブリピクサーの作品や君の名は。などの優れた映画作品には意味のないシーンはほとんど存在しません。全てが韻を踏んで、つながりがあります。(駄作なら意味のないシーンはたくさんあります。)

 

仮に駄作ではないにして、もしあのシーンに意味があるとしたら、プペルが父親であるという伏線です。

絵本では書かれませんが、映像では細かな動作も追加されることになります。

そこで例えばプペルが鼻をこするシーンがあれば、その可能性を少し示唆できます。 

しかし絵本ではよくわかりません。プペルが鼻をこすってるシーンあったでしょうか?

張った伏線のつながりがないのです。

ここも、映像化を前提しているのではないか?と憶測をめぐらせた部分です。

架空の話なんですからもっと別のわかりやすいものにしてもよかったでしょう。
文字があることをいいことに話し方でも良かったのに、あえて「何気ない動作」という点が映像化を前提に作っていると思われるのです。

 

 

絵の一枚一枚のカメラアングルが素晴らしすぎる

カメラワークがあまりにも適格で遠近法も完璧です。

実は既につくられた3Dを絵として起こしているのではないか、実は煙突町のプペルは逆算的に制作されているのではないかと思えるほどです。

 

そこは素晴らしいのですが、普段の西野さんの絵より遠近法が正しすぎるのが気になるところです。

プペル以外の西野さんのイラストをみれば分かると思いますが、
西野さんの別の白黒の絵では、臨場感を出すためか、床のタイルがわざと魚眼レンズで撮ったように歪んで書かれる場合があります。タイルしか歪んでいないので、3Dの手法ではうまくいきません。絵で描かなければ、他の部分も歪んでしまうからです。これは2Dならではの手法なのです。

以下の画像はネットに落ちてた西野さんの画像です↓

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こんなふうに画面手前のキャラクターは歪んでいませんが、地面だけ歪ませて広さを演出しています。

今回何故その手法を使わなかったのでしょうか。
西野風に3Dで制作してから絵本にしたからではないかと思われます。

 

映画では全体の細かな映像をつくるより先に、

画面映えする映像を広告用に先に制作することが良くあります。

こういった画面映えする動画や物語の中心になる大事な部分を「キービジュアル」なんて言ったりします。

つまり既につくっている映画用のキービジュアルを絵本に使っているのではないかという憶測です。

 

プペルは背景が美しいです。これだけのために2000円払ってもいいかなって思うくらいです。かと一枚一枚、キャラクターの顔だけで済ませているシーンがまるでない。

カメラアングルも縦横無尽、遠近法がまるでくるってません。

褒めていますが、絵本で、一枚もキャラクターの顔だけで済ませて背景が白抜きの場面はなかったんでしょうか。

これは言いがかりかも知れません。単に西野さんがすさまじい才能を持っているだけかも知れません。

 

機材を使わない2D界隈の作家でこの完璧な縦横無尽のカメラ感覚を持っている人で思いつくのは大友克洋くらいしか思いつきません。プロの漫画家でもここまでカメラアングルを自由にできる人はなかなかはいません。

絵では顔を正面に書いたほうが映えることが多いし、描きやすいからです。子供と風景とキャラクターの嗜好性についても描きましたが、キャラクターの顔が真正面であるほう穿子供は認知しやすいということもあります。アンパンマンは斜めに描かれることはありません。

 

遠近法はちょっと絵が得意だからといって簡単にできることではない。

なぜなら、国家予算をつぎ込んだ古代の宮廷画家ですら、ちゃんとした遠近法を確立するのに1000年以上かかりました。

日本にいたっては西洋文化が入るまで遠近法が存在しません。お殿様に一生遊んで暮らせるお金をもらっても遠近法は生まれなかったのです。

なぜなら需要もないし、描きづらいからでした。(当時の日本は唐ものっぽい(中国っぽい)→カッコいい、という感覚なのでリアリティは別に求めてなかったのです。)

 

遠近法は本来、人にとっては不自然な感覚なのです。

 

でもまあ前例はありますし、ちゃんと勉強したらできることなので、これは西野さんの才能という可能性は否定できませんし、いつもの技法を使っていないのも単なる心境の変化かも知れません。根拠としては他のものより小さいです。

 

 

なんかキャラクターが3DCGで作りやすそう

…まあこれはもう言いがかりレベルなので割愛します。アート系じゃなくてデッサンが全然崩れてないので確かにつくりやすいでしょうが、

3DCGで作りやすいものは絵にも描きやすいので、他の点よりは不自然ではないです。

まあ破たんがある絵が一つもないのは映像化を前提としているという点と矛盾しない程度だと思ってください。

映画技法に関する言いがかりはこの辺にしておきましょう。もうひとつ気になるのが、西野さんのディズニーを倒すという発言です。重箱の隅をつつくようですが、なぜディズニーなのでしょう。

 

 

絵本なのに何故ウォルト・ディズニーと張り合うのか

絵本で戦っているのに、アニメーションで有名なウォルト・ディズニーと張り合うのはなぜでしょうか。グリム兄弟とかアンデルセンとかは倒さなくてよいのでしょうか。

企画担当者に映像化の旨をある程度聞いていたのではないか?と思うのです。

あるいはアニメであればジブリと戦ってもいいのに、なぜディズニーなのでしょうか。

 

私はディズニーが3DCGを使い始めたからではないかな、と思うのです。 

風船で空を飛ぶあのイラストもカール爺さんの空飛ぶ家を彷彿させます。こちらはピクサーですが、ディズニーとかかわりの深い会社です。

 

個人的にはストーリー的にはポリゴンピクチャーズあたりが作ったシナリオと同じ匂いがするような気がしています。

邦画3DCG制作会社のかかげる目標に影響されたのではないでしょうか。

ストーリーに邦画の3DCG映画と同じ臭いがする

ハッキリ言って邦画の3DCG制作会社のオリジナルストーリー映画はなかなか売れていません。2Dの方が売れてます。

 

邦画3D映画はピクサーのように泣かせにかかっているのですが、

どうも「大人が考えた屈託のない子供」を描きすぎてリアリティがなく、

共感性を得られない面があると私個人は思っています。いい話なんでしょうけど、なんか薄っぺらい。実際3D大御所のピクサーより売れません。

 

 ピクサーと邦画3DCG映画は何が違うのか

一番の違いはストーリーです。絵も外人受けするように作っていますがそれでも売れません。ストーリーが外人受けしないからです。そして別に国内受けもしてきませんでした。

今回の煙突町のプペルもいい話なのですが、どうもしっくりきません。

煙突町のプペルを一言でいうと、

虐められた浮浪者は超優しくて空を飛べました

という話です。

 

しかし現実では臭くて虐められている人や浮浪者などは、そんな力なんてないから虐められています。

これでは、虐められている人は「物語は楽だよな」と思いますし、虐めている方も「映像は臭くないからいいけど現実では避けるよな」と思います。誰も救わないし、共感も得られません。

虐められて臭くて誰からも嫌われて友人にすら裏切られる人が「何故星を見ることができたのか」が大事なのですが、空を飛ぶ理由が唐突過ぎるのです。

 

一方同じ空を飛ぶ「カール爺さんの空飛ぶ家」は、老人の人生がリアリティをもって描かれ、そこから非日常に飛び出すのですが、しかしそれは映像を楽しくする誇張に過ぎません。

カール爺さんの空飛ぶ家を一言でいうと、

悪役の老人が過去にとらわれて間違いを犯そうとしている中、

主人公の老人は「家に置いた昔の思い出」 を捨ててでも、新しい友人の子供を救って新しい冒険にでるという物語です

 

カール爺さんは映像にすると風船で空を飛ぶ、なんて荒唐無稽な世界なのですが、
こんな風に起こったことだけを短く描くと、十分「日常でも起こりうること」でしょう?(見ていない人は是非見てください。)

確かにこちらも唐突に空を飛んでいるのですが、物語のテーマとは関わりがないのです。

 

だからピクサーは「共感」を呼ぶんです。だから売れます。

テーマもしっかりしています。ここでは「二つの老い」「過去にとらわれるか前に進むか」という単純なテーマだけを語っているんです。

トイストーリーでもおもちゃが動くのは唐突ですが、起こりうるキャラクターの関係性やその収まりは現実に起こることばかりです。

 

一方プペルは、日常の誇張ではなく、単に「絵本っぽい」だけなのです。

煙突町という設定と、プペルがゴミ人間で父親のペンダントを持っているという話が関係性が薄いのも気になります。

もし「煙のために星空を知らない人たちの中で、心優しい弱者だけがゴミの世界を知り、それ故美しい星空を知っている」という話にしたいのであれば、もう少し違う書き方があったでしょう。

ルビッチは一度失いかけた星空をプペルの優しさで星空見ることができた、という話ならまあ確かにいい話ではあるんですが…悪くないだけです。

 

またカール爺さんには「解決策や自らの戦いや悩み」がありましたが、プペルには「偶然見つけた船で飛んだ」に過ぎません。これは別にいじめっ子が見つける可能性もあるんです。プペルの特権ではない。

 

この点はルビッチがプペルに飛ばしてもらうのではなく「一度プペルを裏切ったルビッチがプペルのために飛ぶ、その過程で星が見える」べきだったんです。

頑張って「一度失った優しさを回復」→「だから偏見のメタファーである煙を超えて星が見える」という話なら、このメタファーが韻をふむわけです。設定が無駄にならずに済む。(まあそれでも臭すぎますので、正直を言えば駄作だと思います。)

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なんというか、ディズニー(ピクサー)に勝てなさそうです。邦画3DCGみたいに。そんな共通点を感じました。

 

「いや、こんなんこじつけだろ?普通の人はこんなふうに映画見ないからww判らねえよ、深読みしすぎだよ。娯楽なんてワ~って飛んできれいならいいんだよ?

どうせ、ご都合主義がダメとかいう奴だろ?あーうぜーうぜー評論家タイプは死ねよ、いいんだよご都合主義で!現実なんてクソなんだから!」とおっしゃる人もいるかもしれません。

確かにここまで深読みする人は少ない。

しかし、たぶんこういうのは観客の無意識に感じ取るものなんだと思います。

だからジブリピクサーは売れるけど、ポリゴンピクチャーは売れない。

 


余談、なんというか、プペルは子供が子供じゃないんです。ポニョに出てくる水をかけられて突然泣き叫ぶ女子がいましたが、子供なんてあんなのですからね。傲慢で、自分の考えてることが上手く口にできないから、なにかあったら「わっ」て泣いちゃう。

煙突掃除の子供のルビッチは、なんか子供じゃないんですよね。大人が考えた無味無臭の子供というか。なんていうか、ルビッチはかわいくなった新しいドラえもんみたいな、不自然な子供なんです。この辺は子供を観察して思うことです。感覚的ですがわかる人にはわかるはずです。

 

…なんだか話はそれましたが、なんとなく、その売れないストーリーの臭いがするのです。邦画の3DCG映画っぽい臭いです。

 

完全に憶測ですが黒幕に邦画3DCG映画会社が絡んでいるような気がします。

 

あとがき

長くなりましたが煙突街のプペルは3DCG映画化を前提にし過ぎているというのが、黒幕の存在を感じた理由です。

ゴーストライターというのは、すみません、釣りです。 でもあり得るとは思います。ゴーストでないにせよ、かなり映像業界の人間と「こういうのは表現しづらいから外しましょう」「このぐらいの尺で作りましょう」などのディスカッションぐらいはあったと思っています。

 

映像という意識なしにこの絵本が制作されたとしたら不自然すぎるのです。

 

 

プペルは、絵本の素人でも、絵本のプロでもない作品という印象を受けています。

しいて言えば、映画の中堅プロの絵コンテに似ています。

 

私は映画が好きでよく絵コンテ集とかを眺めて楽しむんです。

プペルをみて「なんか、絵コンテ集とキービジュアル集を見ながら文章が添付されてるときのそっけなさとか、描かれてない部分とかのもどかしさを思い出すな。」という印象をもちました。そこからいろいろ考えました。

絵本の素人でもプロでもない、違和感の謎が気になったのです。

 

炎上の仕方も本当にその芸人さんが傷つくようなことは起こらないようになっている噛ませ犬が多いです。無料化は何も悪くありません。まともな人は「そんな終わってる議論に関わらない反応しない」という態度をとっています。あとはアクセス数を稼ぐためにホットワードをつぶやくだけ。

 

これは批判するためにとりあえず見る人や、業界の話題作りのためにとりあえず買う人の集客を狙っていると思います。

 

私は最初関連する炎上案件を眺めながら「西野さんが何が悪いの?絵が上手いならいいじゃん。セールスの才能もあるし、変なやっかみもつ人もいるんだな。」と思ってました。

でもなんだか、あまりにも敵が弱すぎる気がしてきたんです。ここに根拠はありません。丁度、プペルに出てくる人物のように不自然でした。正しいけど不自然なんです。

虐める人間にも理由がありますが、煙突町のプペルに出てくるいじめっ子はプペルを可哀想にするためだけに虐めているとしか思えません。臭いから避けるのはともかく、ルビッチまで飛び火する理由がわからないです。物語の都合上、悪人を不自然に悪くした感じがするんです。パーソナリティの想像力が足りないので、物語に説得力がありません。

 

余談ですが、プペルがもし人間だったら、普通、自殺するか殺人するかするでしょう。人は自尊心なしには生きれません。

しかしプペルは本当に善人で抵抗せず怒りません。

「現実にいる臭くてゴミの中にいる人間は無抵抗で居続けるか、悪役になるかしかない」「抵抗した被害者は被害者ではない。」のです。

 

もし現実で浮浪者が臭いと言われて怒って子供を殴りつけたりしたら、

浮浪者が居座れないように対策されます。

もし子供の親、というエピソードでもなければその浮浪者はただの悪役です。プペルにペンダントがなければ本当のゴミにされるんです。
そもそも子供のいる浮浪者も少ないでしょうけどね。

浮浪者を一度だけ、金持ちの道楽で持ち上げてみた。金持ちは「なんてすばらしい人だ」と褒められて、流行が廃れば浮浪者は元にもどった。

プペルから感じ取れたのはそういう現実です。


「本当に胸をえぐる事実をかけないのは、その人が現実でそれに負けてるから整合性のない子供だましでごまかすしかないからだ。だから胸に響かない。」

このストーリーをつくった黒幕は、きっと現実の誰からも見捨てられる人間は魔法でも起きなければ見捨てられて終わりなんだと結論している方なんでしょう。夢がない人は、夢を語れません。

 

文中にプペルや邦画3Dのストーリーを貶すような発言が多いですが、

私は数多くの良作を知っています。その良作と駄作を並べて語るのは、良作に失礼だと思うので、駄作は駄作だと胸を張って言うようにしていますので、悪しからずお願いします。